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橋本努の音楽エッセイ 第6回「芸術を盾に国家に挑戦する者たち

雑誌Actio 200912月号、23

 


 20世紀を代表する前衛音楽家のジョン・ケージは、1962年に京都の竜安寺を訪れ、1982年に「竜安寺(Ryoanji)Hat Hut Records 1996という作品を完成させている。6世紀の後半に日本の仏教が切り開いた枯山水の美学と、15世紀に完成した竜安寺「石庭」の美学を音楽で表現すると、これが何ともすばらしい。

ケージはこの作品で、音を徹底的に簡素化して、木や石や砂といった自然のもつ精神的なアレンジメントを探求した。例えば15の石の配置を、一つの打音が追う。様式化された幽玄な水の流れを、フルートやオーボエがたどる。滑らかで不規則な音に、時間の幽玄な流れが生まれる。「竜安寺」は20世紀前衛芸術の、一つの到達点とも言えるだろう。

 若きケージは、芸術家としての岐路に立っていた。はたして音楽をあきらめるべきか。前衛芸術は、既成の音楽観念を破壊するがゆえに、その探求は人間性をあきらめることを意味した。例えばケージは、磁気テープを用いて、音の切り貼り=コラージュを探求した。音楽家はそれまで、生演奏によって一定の楽曲を奏でることが、もっとも崇高な芸術表現と考えていた。これに対して磁気テープの可能性を探ったのがケージである。ケージは、音楽よりも音響を求めた。すると自然の世界に通じていた。「この世界では、人間性と自然とは、切り離されることなく一つなのだということ、すべてのことが崩壊しても、失われるものは何もないのだ」ということが、理解されたのだという。

 ケージにとって、音楽を書く目的は、逆説的にも「無目的な活動をすること」にあった。音響の偶然な配列を求めることで、音楽は無目的なものになる。するとその音響の美しさは、生を無条件に肯定する。ケージはそれを「たんに私たちが生きている当の生活に目覚めるための、一つの方法」だと言った。私たちが生きている偶然の生の肯定。それをなすに任せるなら、すばらしいことではないか。ケージは生の偶然性と無目的性を謳歌するために、いつも新しい実験を求めた。例えばケージは、演奏家が複数の指揮者に従ってもよいし、従わなくてもよい、というような作品を書いている。そのような作品を作ることで、ケージはまず自分を変容させ、演奏家の考え方を変化させ、そして最後に聴衆の考え方を変化させようとした。ケージにとって自由とは、音楽活動によって精神が変化していくという経験なのであった。

 それはアナキズムの思想でもあるだろう。ケージは「作曲を回顧して」という詩作品のなかで、次のように書いている。「私たちは不可能事をなしとげねばならない/世界から国家をなくす/知的アナーキーの遊戯を/世界の環境のなかに/もちこむ/うまくいけばだれもが自分の求めるとおりに生きられる」と(小沼純一編『ジョン・ケージ著作選』ちくま学芸文庫)。ケージが求めたのは、アナーキーな全能感としての自由である。

 21世紀の現在、音の編集可能性は、コンピュータによって無限に広がった。その可能性を自宅のパソコンでランダムに楽しむ活動は、アナキストにとって、国家を否定するための精神的拠点と言えるかもしれない。現代アナキズムの本領は、アングラ芸術活動にある。芸術を盾に国家に挑戦する者は皆、ケージの継承者ではないだろうか。